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帰ってきた冷淡辛口

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ふと思ったものすごくどうでもいいこと
  「『美少女』性の有無を決定する主体は、対象が画像の場合は当該情報の受信者だが、文字の場合は当該情報の発信者である」のではなかろうか。

 平たくいうなら、ラノベの挿絵に描かれた女の子が「美少女」かどうかを判断するのは読者だけれど、その本文に「この子は学校一の美少女だ!」と書いてあったならそれに読者が異論を差し挟むことはできない(つまり、筆者が「美少女だ」といったならその子は「美少女」である)、ということだ。

 そうすると、絵に依存する媒体ほど、そこに描写された「美少女」性は不安定になる。例を挙げれば、

 【安定】  『ダンス・ダンス・ダンス』のユキ、『源氏物語』の紫の上
 【不安定】 『Kanon』の一枚絵、グイド・レーニの「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」

というような感じだ。

(あ、僕は『Kanon』結構好きですよ。あゆが雪の中に立ち尽くしてこちらを見ている一枚絵なんかとてもいいと思います。別にいたる絵を貶しているわけではなくて、一般に絵の場合は好みが分かれやすいということをいいたいだけなので、そこだけ言い訳させてください。)

 で、そこから導かれる一つの仮説として、「絵を描く人よりは文章を書く人のほうが『美少女』の描写について無茶ができる」ということがいえるのではないか、と考えた。
 たとえば小説において主人公が「彼女は――まるで宇宙人かと思うような容貌だったが――この上ない美少女だった」と独白するのは、あるいは有りかもしれない。けれどこれを挿絵でいわゆる「美少女」として表現するのはなかなか大変だろう。主人公の感性が一般的なものであるとされているかぎりにおいて、「宇宙人的容貌、かつ美少女」という姿として不特定多数の読者が納得する着地点を探さなければならないからだ。そういう意味で、自己完結できるぶん、文章のほうが無茶ができるのだと思う。
 だからといって、物書きのほうが楽だ、といいたいわけではもちろんない。オリジナリティのある創作物をつくり出すのはどちらにせよ困難なことだと思うし、言葉は悪いがいわゆる「やっつけ仕事」をしたい場合は、流行のパターンというのが明確にあるぶん、絵を描く人のほうがやりやすいような気がするからだ。それに、挿絵がつくことが前提となっている場合は、著者は挿絵の付けやすい文章を書くように求められることだろう。だとすれば結局、できる「無茶」は文章のもつ説得力の範囲内でのみということになって、創作物の一般論に収斂してしまう。

 結局のところ僕は、方向性は違うかもしれないけれど、文章を書く人も絵を描く人も大変だよね、ということを再確認しているだけである。
 そんなのいまさらあたりまえだって? まあ、そうかもしれないけれども。

 ちなみに、こんなエントリを書くことになった原因は『藤宮十貴子は懐かない』(2巻まで、以下続刊)を読んだことである。結構面白かったんだけど、それはそれとして、本文中にかなり頻繁に、ヒロインがいかに美少女であるかをいう描写が出てくるんですね。「大輪のバラのような、きらめく宝石のような、そんな笑顔で」(1巻、p.99)とか「誰の手も届かなかった学園のアイドル」(2巻、p.82)とか。
 こういった描写から僕は「綺麗系の美少女」を頭に浮かべて読んでいたのだけど、挿絵は(あくまで僕の感覚では)「可愛い系の美少女」という感じだったので、ちょっと違和感を覚えたのだ。でも、この挿絵を描いた人は僕と同じように右のような描写を読んで、それを絵にしたはずで……というところから、最初に挙げた定式が頭に浮かんだ。

 かくして生まれたのがこの文章である。すなわち、ふと思ったものすごくどうでもいいこと、だ。そのくせ長い。やれやれ。
| ヒビ | 17:15 | comments(0) | - |
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